昨年10月、朝起きると左手人差し指の付け根に痛みを感じました。
その時は、前夜、犬の散歩中にガツンと引っ張られたときに、
骨にヒビが入ったかと思っていました。
少し腫れてきても、そのうち治るだろうと放っていたのです。
2ヶ月が経っても腫れは引かず、それどころか大きくなっていました。
一緒に病院に行こうと言ってくれたのは、写真家の上田明さん。
かつて聖隷住吉の副院長だった中谷先生に、手を見せると、
「即刻、ハンドに行きなさい」と言われました。
「ハンド」というのは、マイクロサージェリーのできる「手の外科」です。
静岡県には、聖隷住吉にしかないそうです。
紹介状を書いてもらい、聖隷に行ったのは12月下旬。
MRIの予約を取り、はじめてのMRIを受けたのが1月中旬。
その検査結果から、腫瘍専門家の井上先生へと回りました。
整形外科部長の井上先生は、ボクの地元・新潟で活躍されたそうです。
すぐに、やはり新潟ご出身で、整形外科顧問の斎藤先生と相談するから、
少し待つように、と対応してくださいました。
予約なしで診察してくださった斎藤先生は、最悪の結果も想定し、
悪性の場合についての治療方法の説明と、「生検」の手術日を2日後に決定。
生検とは、腫瘍の一部から細胞を取り出し、顕微鏡で検査をすることです。
非常に急速に発達していることから、悪性の可能性が高いといいます。
その日は、念のため肺に転移してないかとレントゲン検査へ。
レントゲン室に入り、不安に思っていたところ、技師の方が、
「建築家のタカハシさんですよね」と声を掛けてくださいました。
驚いたことに、以前設計したモデルハウスに、その後入居された方なのです。
毎年、年賀状をいただいているお礼をつたえ、またメールしますとのことに。
自宅へ帰って、嫁さんに最悪の場合もあると説明。
悪性の場合は、左手の人差し指を、1本なくすことになると...。
転移していた場合については、口に出せませんでした。
子どもたちと遊びながら、成長を見ることができのだろうか...。
涙があふれてきました。
生検の手術を受けたのが、1月下旬。
途中グロッキーになり、全身麻酔に。
意識が遠のく前に、肺の結果を聞かなくてはと、斎藤先生に。
「キレイなもの。大丈夫」とのことで一安心。
目覚めると、手術は終わっていましたが、まだ手術台の上です。
ストレッチャーへ移る瞬間と、天井が動いている記憶。
人生初のストレッチャーです。
全身麻酔が覚めるまで、手術室のリカバリールーム。
リカバリールームから、今度は人生初の車いすに乗りました。
5日後の「生検の結果」まで、非常に長く感じました。
睡眠も、浅かったようです。
「生検の結果」の当日、待合室で「良性、良性、良性」と祈っていました。
診察室に入ると、斎藤先生から「悪性の可能性が少ない。よかったね」と。
しかし、腫瘍そのものをとって、もう一度生検を行うとのこと。
それで、最終の結果となるとのこと。
摘出手術の日程が、仕事の関係で2月15日に決まりました。
ボクの誕生日の前日です。
朝9時、病院へ。9時半から手術でした。
摘出手術もやはり、グロッキーに。
全身麻酔の効きつつある中、「みなさん、よろしくお願いします」と言葉を残しました。
斎藤先生から、腫瘍が腱鞘にこびりついて剥がせない場合、それごと取り除く。
腱鞘がないと腱が浮いてしまうので、手首から移植手術も同時に行う。
リハビリも大変になるから頑張らなければならないし、
手術も非常に難しく、大変細かで、長時間にわたる。と聞いていたからです。
局所麻酔の量も、全身麻酔の量も、前回とは比べものになりません。
意識が戻ったのは、午後2時頃。
起き上がろうとしても、フラフラでした。
リカバリールームで少し休み、またも、車いすです。
注射室でも、ベットに横になりました。
腋(わき)の下からのブロック(局所麻酔)ですので、
腕が死んだようにぶら下がっています。
手首から腱を移植した様子がなかったようで、
良かったと安心しました。
2日後、斎藤先生から摘出した腫瘍の画像を見せていただきました。
「今日から早速、リハビリだ!」という言葉を聞いて、
「よし、午後から仕事復帰だ」と力が沸いてきました。
そして今日。生検結果がわかり、完全復帰です。
一度は、なくす覚悟をした、この「いのち」。
それが、まだ身体の中にあると思うと、なんだか熱いものを感じます。
そして、この「いのち」を、世の中のために使おうと思いました。